葬儀式関連用語と解説

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もがり(殯)

古代における死霊供養の儀式。わが国の葬祭のもっとも原初の様式といわれる。古代には、死者があると、葬送を行なう前に、遺体を仮小屋、あるいはそれに類した、風光を遮る場所に隔離し、死者とある期問生活をともにするならわしがあった。葬制史の上では、風葬から埋葬へ移行する時点に発生したと推定されている。
 なぜ殯を行なったかについては、死者の蘇生を願う「魂(たま)呼び」であったという説があり、また、死霊(新霊−あらみたま)の崇りが怖ろしいので、それを封鎖するために行なわれた、との説もある。おそらく両方の情念が介在していたと考えられる。死への慟哭から、死の穢れへの忌避へと推移していったことも考えられる。
 『日本書紀』の神代記には、天椎彦(あめわかひこ)の死にさいして仮屋を作り殯をし、関係者が集まって、八日八夜悲しみに暮れた、と記されてある。紀・記には、殯がしぱしば登場する。仮屋のかたちは大小様々であったが、喪屋、霊屋(たまや)、素屋(すや)、忌屋(きや)、閉屋(へいおく)、小屋、火屋(ひや)、阿古屋などと呼ぱれる。天皇と皇族の死による殯は、殯宮(ひんきゅう)あるいは梓宮(あずさのみや)で行なわれた。殯は、遺体が腐敗し、白骨化するまで行なわれたようで、貴人の死ほどその期問が長かったといわれる。
 天武天皇の死による殯は、二年ニカ月余の長きにわたったと推測されている。遺体を安置した仮屋内の祭壇には、飲食物が供えられ、親族・友人知已が参集し、魂呼びの歌舞(神楽)が行なわれた。殯を行なった仮屋は、時代が下ってもその形式を残し、死者が出ると喪家は仮小屋(忌籠り)、別火生活をいとなむ風習があった。伊豆諸島には、明治の初期まで喪屋生活の遺風があった。
 また、時代が下るにつれて喪屋は墓地に作られるようになり、さらに墓そのものが屋根を付けたかたちに変遷していった。つまり殯の場所が墓へ移り、喪よりも葬へ比重が移行していったことになる。 (参考-芳賀登『葬儀の歴史』、五来重『(続)仏教と民族』、遠丸立『死の文化史』)

参考文献:「葬儀大事典」(鎌倉新書)  | yeohoo |